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日本の小集団と欧米の個人
【154】 FJN 2010/01/16(Sat) 16:23
このスレッドは、【152】で、まるおさんから頂戴した以下の投稿を考えたく思って立てました。(FJN)

【152】 まるお 2010/01/16(Sat) 13:27★
>>144(FJNさん)
横入り、かつややスレチ失礼します。
***
「単位体ごとの自主性を重んじる」と受け取れるようなセリフを【PTA連合体】の事務系渉外担当者からは聞かされます。
そこで「つまり、単位体も、個々の会員の自主性を重んじるというわけですよね!」と応じると、よきぷーさんが御経験なさったように「言及できない…(モゴモゴモゴ)…」となるようです(笑)。ナサケナイしブキミな感じです。
***
この側面、わたしもとっても引っかかっています。
単位集団の自主性は重んじられるのに、個人の自由は平気で踏みつけにされる…。
いじめ学者の内藤朝雄氏の言う(国家全体主義ならぬ)「中間集団全体主義」の生きる標本か!と突っ込みたくなります。

中根千枝氏がこの問題を考える上で参考になることを言っているので、引用させていただきます。
***
 集団間の特質すべきルールは、各レベルにおける上下関係を守ること、そして各集団の既得権を相互に侵さないことである。
 日本の小集団は欧米の個人に比敵されることを「個体認識」のところで述べたが、構造的観点からみても、日本の小集団は欧米の個人と同じような性質をもっている。つまり欧米の個人に比敵される。欧米の個人が個人(個としての単位)の尊厳を保つために、抵抗を示すと同じように、日本の小集団はそれを部分とするその上位集団や隣接集団に対して、単位の独立性を強く主張し、抵抗を示すのが常である。これは、小集団において個人がその部分として統合されることに抵抗を示さないことを想起すると興味深い。
(『タテ社会の力学』講談社現代新書,p.39)
***

さて、まるおさん、テーマを戴きありがとうございます。
実は私は中根千枝の『タテ社会の力学』を読んでいません。
しかし、引用された箇所で考えようと決め、考え始めたところです。
内藤朝雄の「中間集団全体主義」についても、私は読んでいませんが、『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(★click here★)に以下のように書かれているらしいと知りました。
中間集団全体主義において、
 人々を直接的に苦しめる主要な力は、
 国家権力や市場の貧困化力というよりも、
 『生活の細部まで浸透し、霊魂そのものを奴隷化する』
 ローカルな秩序の作用
そこで、勝手ながら、これをもとに考えようと思っています。
よろしいでしょうか?
「中間集団全体主義」を説明するベターな文例があるのなら、御教示いただきたいのですが。

【160】 まるお 2010/01/16(Sat) 17:15
FJNさん>
スレ立て、ありがとうございます。

>そこで、勝手ながら、これをもとに考えようと思っています。
よろしいでしょうか?

後でベターな文例がありましたら、お示ししたいと思いますが、その御引用箇所は核心の部分だと思われますので、どうぞお考えをお進めめください!
(出先にて)


【172】 FJN 2010/01/16(Sat) 21:42
まるおさん、了解しました。
もう1つ、LINK集[16]にある講演レジュメ、
 《PTAの今日的意義について −集団論としてのPTA、その過去・現在・未来−》★click here★
も参照しながら考えたいと思います。
まずは、以下の箇所を基に。
0.集団論・組織論としてPTAを考える
企業や官庁と同様PTAもまた集団であり組織である。
集団にはその成立過程や目的によって、固有の振舞い方があるし、同様に固有の問題もある。
本日は「社会学的見地から」集団・組織としてのPTAの特徴と問題点を指摘し、その将来について考えたい。
集団・組織としてのPTAは以下のような特徴をもつ:

(1)依存的形成:
  利害の相補性や象徴性の共有がなく、偶然の結果形成された集団
(2)当事者能力の欠如:
  明確な固有の目標がなく、自律的な決定権のない集団
(3)参入退出権の欠如:
  任意団体でありながら、離脱することができない集団
(4)異質な構成員の混在:
  PとTとが異なる社会科学的文脈にのった集団

これらがPTAの歴史、現状に影を落としているし、将来を考える基礎にもなる。


【175】 まるお 2010/01/16(Sat) 23:22
補足
中根氏の発言で一点取り急ぎ補足させていただきます。
***
この単位(=小集団)はもちろん現象的には特定数の人々からなっているが、構造的には不可分の単位ということができる。なぜならば、集団内の個々人の権利義務は規定されておらず、あるいはいちおう規定されていても、実際の運用において、それは往々にして無視されうるし、また、個々人はお互いに不可侵の場をもっていない。(p.18)
***

ここを読んだ時も、これってそっくりPTAやん!と思ったものです。
LINK集[16]にある講演レジュメのご教示ありがとうございます。


【179】 FJN 2010/01/17(Sun) 10:55
タテの序列関係はヨコの秩序意識(リンチを許容する私法的なもの)を活用して維持される――といった感じで考えています。
いま一つ判らないのは、判らないゆえにスレッドタイトルとしたのですが、
  「日本の小集団」と「欧米の個人」が相似形である
――と見なせる根拠です。
欧米の個人は唯一絶対神とのタテ関係が基盤にあるゆえに、日本の小集団のようなヨコの秩序意識を必要としない――というような根拠性ならば、ややこしい信仰心のメカニズムに関連すると判断されるので、私は採用したくない気がします(笑)。
このことは、もう少し考えたく思います。

【中間集団全体主義】の考え方は納得できます。
納得したうえで私個人に新たに生じる問題として、
『生活の細部まで浸透し、霊魂そのものを奴隷化する』作用は、
 1.克服した場合に愉悦感/優越感に浸れるのか?
 2.克服できなかった場合に敗北感/劣等感にさいなまれるのか?
――という2つがあります。
私は2のほうに深刻さを感じます。
したがって【奴隷化させられた】という感覚を楽観方向に解消する、現実路線を考えています。

LINK集[16]の講演レジュメの論旨には、イザというときに理知的な慰安を提供してくれそうなオールマイティっぽい可能性を、私は感じています。


【186】 まるお 2010/01/17(Sun) 23:01
> 「日本の小集団」と「欧米の個人」が相似形である
――と見なせる根拠です。

>>175の引用の直前に、日本では「二人以上の個人の集まりは、一体として不可分の単位を構成しうる」とあります。

「不可分」にして「不可侵」という欧米においては個人に認められるポジションが日本では「家」を典型とする小集団に与えられている、ということが中根氏の根拠になると思います。

「家」の理解においては、かつての日本の家における財産分与の在り方等が根拠として挙げられています。
また、他国においては、個々人が大集団にダイレクトに帰属する形をとるのに対して、日本においては、個人はあくまでも小集団を介して大集団に属するという点も問題にされています。(たとえば、村の寄合にあくまでも家の代表者が参加する等。)

後半の御問題提起に関しては、中間関集団全体主義を克服できない者がストックホルム症候群的に、その状態に惚れてしまうのはまずいなと考えています。
甘く浅はかかもしれませんが、私は、権利と義務の伴う、法治的な「個人主義」を目指したいと思っています。


【187】 FJN 2010/01/18(Mon) 06:35
根拠の御提示ありがとうございます。
「家」でしたか。
【不可分かつ不可侵】という点で「日本の小集団」が「欧米の個人」に相似している――と考えると「一丸となって」という一種集団自決も辞さない側面が浮き彫りにされる印象を持ちました(恐怖笑)。
「間接民主主義と直接民主主義」の考え方にも関係してきそうな気がします。
私は、直接民主主義で可能なところを間接民主主義で済ませる現象の1つを、固定的な「班/小グループ」を編成して学習指導する学校教育に感じたことがあります(笑)。
また、「家」の考え方を持ち出すと、漢字文化圏には「国家」という熟語があるので、安直な民主主義概念に直結しそうでツラい感じが少々します(笑)。

なお、【ストックホルム症候群】と【リマ症候群】の説明をネット辞書を参考にメモしておきます。
●長期にわたる監禁状態の中で…
 1)人質が犯人に感化される:ストックホルム症候群――★click here★
 2)犯人が人質に感化される:リマ症候群――★click here★
一般社会で擬似的な監禁状態にある場合、リマ症候群に傾いたりストックホルム症候群に傾いたりを、人は繰り返しているのかもしれません。何となく日本社会で「おたがいさま」と言われる場面を想像してしまいました(苦笑)。

今のところ『所属する集団が1つでも2つ以上でも、そのすべてが全体主義になりがちなのだとするとタマラナイよなぁ』と思います。


【212】 よきぷー 2010/01/19(Tue) 11:19
FJNさん
>したがって【奴隷化させられた】という感覚を楽観方向に解消する、現実路線を考えています。

具体的にどんなことがあるでしょう?

奴隷みたいだ、兵隊みたいだ、というのが私がPTAに携わり始めてすぐ思ったことです。
でもまだこの状態は続くので、楽になりたいですね。
楽になるには、染まるしかないのか? いやいや、それは勘弁・・というところ。

ストックホルム症候群、!、そうだ、まさしく、と思えます。
先日、役員の方に「なにか不満だったりしたことありますか」と聞いてみたら、「役員に当たらない人がいること」と言っていた。 決して体制批判にはならなくて、やりたくないことをやらされている、という事実は容認してしまっているのが不思議でした。 やりたくないことを、仕事を休んでまで、させているのは誰?と言う視点にならないんですよね。
この、やらなくてはいけないこと、という刷り込みは誰がさせたんだろうか、と思います。学校でしょうか、自分たちが勝手に、なのでしょうか。 慣例の力の強さ、でしょうか。



【215】 猫紫紺 2010/01/19(Tue) 12:48
よきぷーさん>
>やりたくないことを、仕事を休んでまで、させているのは誰?と言う視点にならないんですよね。
わたしも、同じ事を疑問に思っております。
>やらなくてはいけないこと、という刷り込みは誰がさせたんだろうか
ご指摘のことももちろんあると思います。女性は男性の言うことをだまってきくものだ、という躾ですとか・・。
他に、大きな原因の一つに、「規約の文言のあり方」が挙げられると思います。PTAの規約はたいてい、「私たちは、○○できる」という書き方ではなく、「会員は、○○小の保護者と『する』」という書き方になっていると思います。


【216】 よきぷー 2010/01/20(Wed) 09:00
私のところでは規約さえ配布していません。
先日探してもらったところ(教頭に)会費も違っていたので数年前に作られて放置、みたいでしたね(酷い)
会員は、○小の保護者とする!、とありました。
でも、規約の存在なんて関係ないくらい染み込んでいる。

代々、受け継がれていく意志、というのかな。
どこかで読んだけれど、伝統行事みたいだと・・。
だから変えちゃいけないしそのまま受け継がなくちゃいけないし、ってなるんでしょうね。

市P連に電話したときに、母親委員会なんてネーミングは時代錯誤じゃないか? と訴えてみたんです。
そうしたら、一応認めたうえで、「でもこの委員会は古くからあって伝統が・・・」って意味不明なことを言ってましたもん。 (呆)
うちの学校では副学級長が母親委員会に属する規定になっているんですよね。ってことは、副は必ず女性、と決まっているということですか?っていう疑問ですよね。
こういう点をみたって、PTAは前近代的な集団です。

伝統、と言う名の下に馬鹿らしい慣例を続けているのが嫌。
守りたい人だけで守ればいいのに。

と、話を戻して。 規約の改正が行われて、きちんと配布される、これ大事ですよね。 そのためには本部役員にならないとだめでしょうか(なっても無理そうだけど)


【234】 猫紫紺 2010/01/22(Fri) 14:28
よきぷーさん>
>規約の改正が行われて、きちんと配布される、これ大事ですよね。 そのためには本部役員にならないとだめでしょうか(なっても無理そうだけど)
本当、ジレンマです。


【237】 柳下 2010/01/23(Sat) 07:14
よきぷーさん>
猫紫紺さん>
 >規約の改正が行われて、きちんと配布される、これ大事ですよね。 そのためには本部役員にならないとだめでしょうか(なっても無理そうだけど)
難しいですね。本当に。ただ、私の場合『PTAは無くていい』と考えるので、本部役員にもう一度なって改正というより、学校とPTAの線引きの必要性(その前に問題点を学校に理解してもらう必要性を感じますが)を学校に訴えていく事が大事では、と最近思いはじめております。


【240】 よきぷー 2010/01/23(Sat) 15:40
私も無くていい、と考えてます。 あれこれ言っても無駄だろうから、やっぱり退会しかないか、と常に考え続けてはいます。そのためには、学校とPTAの線引きを訴えておかないとなぁ、、というところ。学校はどっちの見方か、ということになりますが、PTAを怒らせると怖いなぁと思ったりしているのではないか、と想像します。
だめもとで訴えていこうとは思いますが、勇気をもって退会してしまえば、ご勝手に!ということで関与する必要もなくなるのですよね。 
中に入って改正できるか・・ってやっぱり難しいんでしょうか。前例どおりでいいじゃないですか、って流されてしまうのかな。


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